帰るべき場所についての覚え書き

ミクシィというのは凄い発明だ。
最近だか電話で話した友だちはミクシィで知り合った人に恋をしているというのだが、ここまではわりと納得できるというか、だってネットゲームで知り合って結婚する人がいるというのだからミクシィはコミュニティとか好きな映画とか共通の○○みたいなものが簡単に発見できるし、共通の○○がひとつでもあれば簡単に恋に発展するというのは映画が100年の歴史をかけて描いてきた事実であるのでミクシィで知り合って恋をするというのはひどく心にすとんと落ちる。言い訳くさく書いたけど、つまり僕はパトちゃんに恋をしたし、自己の経験があると納得への道程というかそういうのはすごく近いはずだ。あーパトちゃん帰ってこないかなあ。
そこで僕が言いたいのはミクシィというものの凄さで、例のミクシィで知り合った女性に恋をしている彼は、甘いあまーいため息をつきながら「このミクシィでの出会いを10年前の人にいくら説明しても分からないよね」と電話で言っていたのだが、僕はちょうどその時、ミクシィで友人の日記を見ていて、彼女が「渚音楽祭に一緒に行ってくれる人募集!」みたいにあったから、これは僕に対して言ってるんだろうなあとか考えることに夢中で、電話の向こうの彼の話を右耳から左耳へ流してしまい、「うん」と適当にうなずいておいた。だが罪悪感に苛まれた僕は、「ごめん聞いてなかった」と心から謝ったのだ。
だから僕はペドロ・コスタには行かず渚に行くのだ。なぜならSUN PAULOが今一番気になっているアーティストだからね。どうでもいいけどSUN PAULOのメンバーの森俊之は僕の友人の森俊介に名前も顔もそっくりだ。彼はフジロックで警備員みたいなバイトしてて、何度か会ったのだけれども、先日また会って話したときに「がるぼるがフジで一番楽しそうだったよ」と言っていた。うふふふ。フジは最高だったなあ。苗場に帰りたいなあ。みんな朝霧うらやましいなあ。とりあえずノリで朝霧までいっちゃおうかな。10日のゆら帝のライブまで音楽が無しはちとつらいなあ。
で、ミクシィ!の話に戻るわけだけど、高校時代に仲良かったというかそんな話してないけど、超仲いいやつの仲いいみたいな感じでわりと仲良かったみたいな奴がいて、彼は京大にいって突然マイミクになろうよとメッセージが来たから今マイミクなんだけど、日記とか見てるとすごく音楽とか驚く程詳しくて、わわわ、高校時代に音楽の話とかもっとしておけば良かった、と悔やんだのだ。なぜなら僕の高校は驚く程文化的なものとは程遠いあれだったから、スピルバーグの映画でも誰も見に行かなくて、親友がいなかったら僕の人生は高校時代で終わっていたかもしれない、といったくらいでだからミクシィとは凄いね!という話。
つまり京大に行った彼のことを思い出しながら、最近めっぽう人気の森見登見彦の『太陽の塔』を読んでみたわけだ。なぜ京大かというと、森見登見彦は京大を舞台にした話しかかかないらしいから。でこれが予想通りというか全然面白くなくて、空気のように恋をしたい今の僕として179度くらい違う考えをお持ちの方が主人公だから真逆の考えはちょっと受け入れられなくてダメだ。ここで真逆(まぎゃく)という言葉を使ったが、「まぎゃく」という言葉は本来無いらしく、真逆「まさか」という言葉の誤用らしい、ということを超仲いいやつが言っていた。だから僕はインテリだけどちょっとムカツく方が真逆(まぎゃく)という言葉を使った瞬間にここぞとばかりに、「その用法は誤ってますよ」と責め立てたのだが、「いや君ね、言葉というものは更新されていくもので人々が共通の理解を持って使っている言葉こそ正しい言葉なんだよ」と言い返され、あまりにも正しいのでムカついた。いつの時代も頭がいい人間というものはほんとうにムカつくものである。
僕は大学に入学するとき、京都の某私立大にいくか、いまの大学にいくか本気で迷った類の人間なので、そういった意味でだけ『太陽の塔』は学ぶところがあって、京都の某私立大に行っていれば憧れの京の町で一人暮らしというものができ、ちょうどそういうことを悩んでいたときに『サユリ1号』を読んだので、こんな青春が京都には…とか思っていた。今となってはこの大学を選んで出会った人とか思い出とか、なんとかここで恥ずかしいことを言う気はないけれど、とにかく自分の選択を後悔はしていないのだが、最近友人が「一人暮らしはいつでも自分のうちがラブホになることが最大のメリットだよね」と語っており、その点だけが気にかかる。一人暮らししていれば恋の形は僕の経験したそれとは全く別物であったのだろうなあ。こんなに彼女欲しいなあとか悩んでいないのだろうなあ。
だから僕はこうしてひとり部屋でグリフィスの『ホーム・スイート・ホーム』を見る。いきなり驚かされたのが1章の配役みたいなとこでリリアン・ギッシュの役名がHis Sweetheartとかになってたわけで、グリフィスは傷心の私の傷を癒す気は全くないようだ。それにしても1章とか2章とかストーリーはまったく『TRUE HEART SUSIE』のそれと一緒で、そうだよね恋ってそうだよね、と。男がどっか街だかいって、女はただ待って、帰ってきた男は変わっていて、他の悪い女になんとかで、でも女は信じて待つ。とほんとそれなんだろうなあ。それにしてもリリアン・ギッシュの役柄はあまりにかわいそうすぎるので、1章は嫌いで、2章はとっても好きだ。